私が親元を離れ就職をしたのは、金の卵と言われる始めた昭和39年の春でした。大中小企業の製造工場の工員から、大工、床屋、寿司屋、など中学卒業生でも沢山の就職口がありました。私は浜松の田町の梅月と言うお菓子屋に丁稚奉公に出ました。お菓子屋を選択した目的は「金持ちになりたい、高校に行った奴らに、負けたくない。」そして目標は独立して社長になる事でした。時期は東京オリンピックを控え高度成長期、口減らしの為の丁稚奉公制度が終わりを告げる頃でした。同級生のほとんどが労働環境や待遇の良い製造工場に就職して行きました。それに比べて毎月1日の休みで労働時間は不規則で、給料も小使い程度でしたが、大きな夢と明確な目標を持っていた私は、工場に就職した人達の待遇の違いなどを聞いても労働意欲は全く落ちませんでした。その経験から社員には、常に苦労は買ってでもせよ、講釈は後で、まず仕事を早く覚えろと口癖のように言ってきました。その考え方がそのまま社内風土や経営理念になっています。この就職難の時期でも、新卒や中途応募者に限らず、ほとんどの質問内容は権利が先で、休日と待遇、複利厚生です。権利は義務を果たさなければ主張しにくい事が解らない様です。私だったら報酬だけの働きが出来るか、職場の仲間と上手くやって行けるか質問すると思います。我が社の業種は職業観や労働環境の考え方が職人気質でその事が功をなして、日本の経済の発展に貢献し現在を迎えたと思います。最近の労働環境は業種業態に関係なく労働基準法の枠の中で就業規則を定めたのが、現在の経済環境を招いた結果だと思います。その要因として労働コストは、売上原価を引き上げ、利益を圧迫し、国内同業者との競争力が増し、企業は労働力を派遣会社や外国人労働者に求め、さらに、労働コストの安い海外に労働力を求める結果となりました。その結果が大変な求職難の時期を迎えたと思います。
日付:2011-01-07
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