戸田語録

私の人生観④ : 中学時代

同級生100名の小さな地区では、自分の家や家庭の内容そして田舎育ちの古臭い人間関係から同級生490名の中学校へ行くのが楽しみであった。大きな学校に行き地区が広範囲に成ればこんなチッポケナ僕一人の家庭環境など気にしなくなるだろう、そして肩身の狭い思いをしなくても良いと思い心弾ませ入学しました。まったくその通りでした。同級生や先輩に多くの友達が出来て、本当に楽しい中学時代を過ごせました。入学当時から、進学希望でしたので勉強も頑張っていました。2年の2学期になり進路相談があり家庭で相談をし、どちらかに決めて住民票提出を求められました。親に話したら、お前は養子だから義務教育だけでそれ以上は面倒見れないと言われ、お前の養子の兄も中卒だからとあっさり言われました。その時は一瞬養子と言われドラマの主人公になった様で頭の中はパニックに成りました。小学校高学年から中学校まで人に貧乏と見られたくないから、皆に隠れて新聞配達や牛乳配達、子守や農家の手伝いそして夏休みや冬休みにアルバイトをしていましたから、高校は働きながら定時制高校に行くつもりでいました。ところが家から出て欲しいと言われました。それ時を境に友達も代わり遊びも代わり、中学3年2学期を向かえ就職口を決める時期を迎えました。求人票を見ると、住み込みでの働き口は遠くの集団就職しかありません。15歳の僕は近くに住み込みで働きたいと思いました。いろんな職種が有りました。「床屋・ペンキ・電気屋」その他いろいろ有りましたが、お菓子が大好きな事と近くのお菓子屋にはテレビが村一番早くに入った。そして食べ物は沢山あるし冷蔵庫はあるしお菓子屋の子はいつもお弁当のおかずにも困らないし、そんな光景を見てお菓子屋は金持ちだと子供心に思い、近くて住み込みで手に職付いて将来独立できる就職口はお菓子屋しかないと思い浜松市のお菓子屋に決めました。就職祝いに貰った5000円の腕時計を持ち丁稚奉公に出ました。ナンカ小僧で負けん気の強い自分でも15歳のあの時はきつく辛かった。その年昭和39年高度成長期の入り口で丁稚奉公は最後の年ぐらいではなかったかと記憶しています。就職していくその朝、堤防の上から自分の育った家を見て、頭の置く深くまで、必ず「高校に行った人達には負けなくない、必ず金持ちになって、大きな家に住み幸せな家庭を築く」と強く思い。こんな小さな家と環境をくそ食らえと強く思った。そのハングリー精神だけで家を出て就職をして行きました。今思うとこんな僕を育ててくれた親や家庭に、そしてイタズラ小僧で迷惑をかけた地域の人達への感謝の気持ちなど何一つ無かったと反省しています。
日付:2005-12-22

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