戸田語録

私の57年の人生観① : 小学生の頃まで

私の人生は、大変希少な生い立ちをしています。けっしてダイヤや金の様な高価な価値ではない訳ですが、皆さんとはだいぶ生い立ちが違と思います。「波乱万丈な人生」とでも言ったほうが格好が良いわけです。今年で57歳を迎え人生折り返し地点を回りきった所でなぜか書き残したくなりホームページを通じて10回に分けて連載する事にしました。掲載をするにあたり関係者に誤解を招いたり失礼な言い方をするかもしれませんが、学識のない私に免じてお許しを願います。私は昭和23年11月28日に掛川市領家無番地に誕生をしました。親鸞聖人が亡くなられた日に生まれたのです。どうも親鸞聖人の生まれ変わりかなと最近思うようになって仏教や儒教の書物を読みあさっています。なかなか仏教の真髄にまで到達はしませんが自分なりに必ずや親鸞さんの血を引く弟子ぐらいまでにはと思い精進しています。さて私の記憶は5歳ぐらいからしかハッキリ覚えてはいません。家は広さが8畳と押入れのある一部屋しかなく屋根は杉皮だったと記憶しています。部屋には1本柱があり、母は仕事に行くとき私をその1本の柱に縛り付けて近くの織物やに勤めて行ったそうです。昼休みに乳をくれる為に帰って来るとよく縁側に落ちていたそうです。どうもそれが原因で頭が良くならなかったのではと思います。生まれ育った部落は大きな農家の家並みから少し離れた山沢の堤防の下に一件だけ家が建っていました。台風が来ると水がすぐつかるので近所の家の軒下をよく家族で借りに行った事を記憶しています。兄弟は父の違う妹が2人弟が1人、1つおきに3人いました。そして7歳上に母の違う兄がいました。兄とはいっしょに遊んだ思い出はありません。そんな家庭に育ちました。小学生の頃は子守の毎日でした。春の遠足は歩いて行くのでお金が掛からず参加をしたが、秋はバスで行くのでほとんど行った事はありませんでした。修学旅行も熱が出て行けませんでした。うまい具合にそんな時熱が出るのです。修学旅行の時に同級生が買ってきてくれた像の置物は鮮明に記憶に残っています。また家には水道がなくてお風呂水は家の前の土手を上り下りして沢を越えて、よその井戸水を汲みに行くのも毎日の仕事でした。家計は大変貧困でよく母と近くの家に揚げ半やコンニャクなどを持ち、溜まった学年会費を借りに行った時の事はいささか僕の脳裏に焼きついています。その時の屈辱は誓いとなり必ず大きくなったら金持ちになるんだと心の奥底に思いました。そんな家庭ですから小遣いはあまり貰えませんので、よく近くの川原で鉄くずを拾い古物商に売りに行ったものです。また教科書は今みたいに無料ではなく1年から6年まで近所の1つ先輩の女の子のお下がりでした。女の名前の書いた古本はナンカ小僧にとっては大変きつかったです。性格はナンカ小僧で、同級生は私と同じクラスになりたくないと良くクラス変更のとき、父兄が学校にじかダンパしたそうです。その事を思うとあまり良い性格ではなかったようです。今考えるとあの環境で今有る自分が不思議に思うと共に、良きにつけ悪気に付け今まで人生で出会った多くの人達に感謝しています。今回この掲載をするにあたって、若い人たちの参考にそしてどんな環境の人でも夢を持てば最低、私ぐらいまでにはいやもっともっと大きな志を持ちは大成して貰えればと思い掲載します。「なせばなる」「志高く思いは深く」ぜひご意見がありましたらメールください。
日付:2005-08-17

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