戸田語録

私の人生観② : 楽しく遊んだふるさとの山河

貧困で辛い事ばかりではなかった。どちらかと言うと貧困で辛かったと思ったのは大人になってから、ほかの人達と人生を比べた時であの時はもう少し西に生まれたらとか、あの家の子供だったらとか思っただけで、子供心に今どうに変わるわけでもないことは、身に着いていたようです。でも大人になったらどんな事をしても金持ちになろうと強く心の中に思い込み内緒にしていました。私のふるさとは南に小笠山を抱え北には逆川(原谷川の支流)、そして掛川市と袋井市の境の掛川(旧曽我村)側で大変すばらしい環境でした。幼稚園はなくて、小学校は掛川市立曽我小学校でした。一学年で100名で2クラスで6年間通いました。同じ地区の同級生は8人いました。小学校6年の時は子供会の会長をやりました。学校と私の地区はすぐ隣りあわせで学校前の道路は通学路でもあり、掛川袋井そして法多山への主要道路でした。バスが一日に3本ぐらい掛川ー法多山を往復してました。道路は舗装もしてなく両側にはくぼみがあり、雨降りなどは、たまに通る車によく水をかけられたものでした。通学は朝決められた場所に早めに集まり相撲を取ったり缶けりをしたり、日なたボッコをしながら腕相撲などをして時間いっぱいに学校に入りました。夏の遊びは水遊びが主で学校にはプールが無いので汚い逆川やため池で泳いだりしました。す潜りで魚を取ってよく手を蛇篭にはさみ何回もおぼれ掛け、今思うとヒャッとします。また学校帰りにどじょう捕まえてそれを餌にして、川に夜仕掛けに行き早朝、掛かったうなぎ取りに行くのが楽しみでした。あの頃は食用蛙やトノサマガエルを買ってくれるお店が有り、捕まえて売りに行ったりもしました。山遊びと言えば、小笠山の頂上までアケビ取りにいつたり、メジロを捕まえに行ったりしました。また近くの山で地区対抗でチャンバラごっこ等をして遊びました。台風の時期になると台風の去った後、家の前の沢に逆川より魚が上がってきます、雷魚や鯉、フナ、カニといろんな魚が取れました。1週間ぐらいは魚料理の毎日ですです。冬は今と違い大変寒く田んぼやため池などは暑い氷が張り、良く氷滑りをしました。時々滑りすぎて氷が割れて落っこちてズブ濡れで家に帰ったものです。また凧揚げや竹馬、メンコは冬休みの恒例の遊びでした。私の自慢は私の兄が映写技師をしていた関係で映画は無料で見れたことです。よく近所の友達を連れて行きました。私たち団塊世代の小学生の頃は家電が普及される真っ只中でした。特にテレビです。金持ちの家には早くテレビが入ります。遠くの家までテレビを見せてもらいに行き家までの帰り道が怖くて跳んで帰ったことを思い出します。懐かしい思い出が浮かんできます。
日付:2005-09-08

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