私が知り合ったのは、昭和62年頃かと思います。余り数値とか記憶は、昔お思い出すのには必要がないと思いますし又余り詳しく記憶をたどる事において、いやらしさや人間の見たくないものまでがハッキリと見えてくる事があります。あいまいで強く残っている事柄を記憶をたどりながら、筆をとる事が私は一番良いと思うのでいつもその様にしています。それでは私の人生の出会いの一人として書き残さなくては、いけない白木ハナヱを20年前の記憶をたどって、お話させてもらいます。前置きが長くなりますが、登場する人物にも何かと迷惑が掛かるとは思いますが、現実は現実ですのでご理解をいただき仮名とさせてもらいます。紹介された時、白木さんは掛川市七日町に一人で住んでおられました。住居や身なりを見て、この人があの有名な白木ハナヱさんかと驚きました。私に白木さんを紹介してくれた人は、会社の近くの農協の理事であり、春林院というお寺の役員さんの深田さんでした。あの頃は私も若く何事にも動じず仕事に頑張っていましたので、幼い頃からの私を良く知っている深田さんは、白木さんの面倒を見てくれる最適な人間と思い、私を紹介をしてくれたのではないかと思います。最初の相談依頼はお屋敷を掛川に持つ事です。その土地建物の紹介でした。その1件だけで終わっていれば、何の変哲もなかったのですが、それで終わるわけが有りませんでした。白木さんの出生には、色々ご苦労が有った様で余り多くは、私にお話をしてくれませんでしたが、相談されたりするには生い立ちなどや、その人の考え方などを聞かないと結論が出ませんので、ある程度は私から聞きました。若き頃は看護婦さんをしていた時期が、少し有った様ですがいろんなシラバを重ねて、政府のご用達の仕事をしていたようです。ある時中国に渡り政府の仕事をしていたようです。白木さんの話によりと資産を持って引き揚げて来るのに、大変な苦労をした話も聞きました。戦後のどさくさの中で東京の土地を転々として、引揚者や政府要人の裏方などの仕事をして、土地や建物を手に入れて資産を増やして言ったようです。都市開発で2,3回転居を重ねて安住の土地として、掛川の知人を頼って、知人のお寺に骨を埋めるつもりで来た様でした。ところが知人が亡くなっており、いろいろな事で心が揺らいでいた時期に私と出会ったのです。掛川の知人とのつながりは、知人が若い頃、東京に出て居候をさせてもらっていた家主が白木さんで、そこで知り合った女性が、後の知人さんの奥さんだそうです。そのご縁で袋井の可睡斎に多額の寄付をしていたのです。私が知り合ってから3年余りでしたが、ご寄付のお願いの人達が度々来ていました。相続人のいない資産家の周りには、いろんな人達がおいしい蜜求めてハイエナのように、お金だけを求めて来るのです。その頃掛川市では新幹線掛川駅の寄付集めが始まった頃で、そこに知人のお寺の檀家の一人が新幹線駅の寄付集めに度々白木さんを訪ねてきており、余りいい印象はしていませんでした。寄付やお金の事は彼氏の山崎さんがすべて仕切っていました。その内に山崎さんは寄付問題で掛川市や掛川市長をあまりよく思わなくなり、いつも行政に不満を手紙で申し上げていました。そんな時に白木さんの希望の土地が手に入れることが出来ました。それからは白木さん、山崎さんは土地建物にすべての関心が移り、毎日のように私は呼び出しを受けて建物の相談に明け暮れました。その内に男衆のような存在になり始めました。設計は私にするように頼まれ、図面を起こしたり、有名な豪邸を山崎さんと視察したりして、豪邸作りが始まりました。
日付:2006-10-14
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