小さな頃からの夢であった。独立開業、社員はいなくても社長である。社名は戸田製菓保健所の許可も下りて後は販路だけ、田舎の店にお菓子を置かして貰い売れただけお金を貰うというシステムで販路を拡大しながら売上を上げて行きました。私の製造するお菓子はなかなかの人気があり老人会のお茶会や慶弔の時の引き物にと重宝されました。アルバイトも使い始めあっという間の1年がすぐ経ちました。手伝いの人達に1周年記念のお祝いとして、日帰り旅行を計画して富士五湖1周に行くことになりました。今で言う慰安旅行です。一日楽しいひと時を過ごし帰りにとんでもない事故にはまってしまいました。沼津の国道一号線千本浜海岸で信号待ちでとまっている時に後ろから大型トラックに追突されました。軽四輪のバンは二つに割れ大破して同乗者2人は軽症、私は運転していた為か重症でした。気が付いた時は24時間後の病院の個室のベットの上でした。「神様は本当に意地悪です」せっかく夢叶い成功しかかってたのに廃業に追いこまれることになりました。運の悪い時は悪いことが重なるもので入院先の患者が特別な人達がほとんどで、車の当たり屋や労災保険や社会保険で七癖付けて、あそこが痛いとかここが痛いとかで遊んでいる連中がほとんどでした。私もご多聞に漏れず、感化され退院後2年間の人生はブラックボックスであまり話をしたくはありません。そのブラックボックスが今思うと良い経験になりました。もしあのままお菓子屋の製造卸をしていたら今の様な環境にはならなかったと思うし、また一歩間違えば今頃檻の中かと思い、冷や汗が出る時が有ります。これもいろんな人との出会いが有り、その時々に多くの人に助けられてブラックボックスを抜け出ただと感謝しています。2年後のある時このままこんな事をしていたら、同級生に負けてしまう、それだけではなく、故郷の笑いものになってしまう何とかしなくては、そんな時生まれ育った家を潰して家族が引っ越すことになりました。俺はどうなるんだと、尋ねると引越し先の土地を少し貸してくれることで話が付きました。5坪ぐらいの土地でした。そこに5坪の掘建て小屋を建てて工場とお店に分け、独立開業することになりました。製造卸とお店売りとを併用して始めました。何とかなるものです。お店の売上は天竜浜名湖鉄道の細谷駅前と言う事で学生のたまり場となり売り上げもそこそこあり、順調な滑り出しでした。このままで終わらないのが私の人生です。
日付:2006-02-08
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