私なりに自分の人生を振り返ると、どんな事にも顔を出したものだとつくづく思う。やくざ社会から政治活動、そして高校・大学の講師や各団体などの講演まで、その中でも政治の社会は、私流に一言で言うと、表現が適切か解らないが実に面白い。いや面白かったと今だからいえます。最近テレビ、新聞なので報道されている政治家の不始末や、関係する事件が物語っているように、中身は複雑怪奇である。私が係わったすべての政治家がそうであったから、他の政治家もそうであろう。複雑怪奇さが大きければ大きいほど大きな政治家である事は確かである。中には鯨のような政治家がたらいの中で政治活動をしている人もあったが、それはそれで面白いものである。私が最初に政治活動に足を踏み入れた動機は不純でした。それまで政治とは不縁で別世界の事でしたので、見る見るうちに私の好奇心を引き込み、負けん気の強さで学びました。それは会社の成長と正比例をしていたのではないかと思います。政治活動をしたから直接仕事に役立ったかというと、下心ある企業後援者達とは違う角度で役に立ちました。最初のきっかけは、私がお菓子屋を廃業して下請け水道工事屋になり、落ち着き始めた頃でした。元請業者である袋井の第一設備工業所の会長から、私も市会議員をしている関係で、公共事業を受注している会社に余り口出し出来ないので、下請けを止めて息子(社長)の右腕として手伝ってくれないかと、相談が有りました。その時私は大変うれしいお言葉ですが、私の人生の目標は、その頃「お金持ちに成る事・そして社長です。」とハッキリお断りすると、その次の言葉に感動や尊敬そして私もこの様な社長になりたいと思いました。その言葉は「下請けから脱皮をするには、掛川市の指定工事店の認可を取んなさい。出来る限りの協力はする」と言ってくれました。そして県の建設業の許可に始まり、すべての認可を貰う手続きに協力していただきました。そしてもう1つ大切な事はと言って、私の地元選出の市会議員村松猛夫先生を紹介してくれました。はれて認可をとり地元で元請業者として正々堂々と受注活動が出来るようになりました。そのご恩として村松議員の右腕のように政治活動に協力しました。いろんな市会議員の先生を紹介されたり、県会議員・参議院・衆議院などの選挙に駆り出されながら、政治の裏表を学びました。時には専任秘書が出来ないような仕事も、任せられるようになり、持ち前の熱意と根性で会社経営と、その合間に政治活動の二束のわらじで頑張りました。そんな面白い事ばかりが長く続くわけには行きません。その頃私達の地元からは参議院は現掛川市長の戸塚進也先生、衆議院は中選挙区制で私は、市会議員村松先生の応援する原田先生を支持してきました。原田先生の奥様は掛川出身の人で、とても感じの良い人でした。私は原田先生が必要なら、自分の夢を捨てても先生の為にと思うようになった頃、地元の戸塚先生が衆議院に鞍替えをする事になり、原田の掛川後援会の市会議員をはじめ、上層部のほとんどの人が戸塚陣営に移りました。私も地元だし参議院の戸塚先生を原田先生同様に、支持していましたから悩みました。その時後援会長と幹部の山崎巌・戸塚(ヤマキ)両氏に、「原田後援会に残ってくれないか、戸塚候補はだぶん落選するだろう。その時掛川市が困ってしまうので、村松議員も残るから」と頼まれました。今考えると若かった、今ならとても怖くて残れなかったが、何かカッコウつけて頑張ります。困った時は協力してくださいねと頼み、地元で想像以上に嫌われながら、他の地区の原田先生を約束どうり大臣になるまで支持しました。やがて大臣になり建設大臣室で「長い間有難うございました。これで僕の夢が叶いました。後援会を脱会させていただきます。」と挨拶に行き、それからは一度もお会いしなく先生もこの世を去られました。これが私の人生を大きく転機させた時期でした。
日付:2007-05-02
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